「命(ヌチ)どぅ宝」本当の意味

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「2000年に行われた九州・沖縄サミットで、当時のクリントン大統領が基地の必要性を『命(ぬち)どぅ宝』を引用して発言したらしいけど、ほんと?」

「ほんとみたいよ。沖縄県のサイトに全文の仮訳があるから読んだらいいよ」

「尚泰王(しょうたいおう)が読んだ詩を都合よく引用してない?」

「都合がいいから引用したんだろうけど、詩の主旨とは矛盾しないよ」

「反戦反基地運動のキャッチフレーズが基地の必要性に引用されるなんて信じられないな」

「現代では、『命(ヌチ)どぅ宝』は『自分の命が宝』の意味で使われているからね。銃規制に反対するアメリカのライフル協会でも使えるキャッチフレーズだよ」

「皮肉に聞こえるのは気のせい?」

「気のせいじゃないよ。自分の命が一番なら、他人の命は何番か?という答えをライフル協会も米軍基地も明確にしていて、沖縄県民がアメリカ人と同じ見解なら『命(ヌチ)どぅ宝』で反戦反基地を訴えるのはやめたほうがいいよ、と思うわけよ」

「珍しく苛立ってるよね?」

「命に優劣を認めるなら殺し合いが正当化されても仕方ないよという皮肉と、『命(ヌチ)どぅ宝なら自分の宝は自分で守れ』と米国に言われ、日本も自分で守るぞとその気になっている現実が見えないのかよ、という苛立ちだね」

「一体誰から守るんだよ、どこに敵がいるんだよって沖縄県民から非難されるぞ」

「日本にとって沖縄はその名の通り沖に浮かぶ縄だけど、中国にとっては行く手を阻む万里の長城。太平洋、そしてその先にあるアメリカへの進出を阻んでいるだけでなく、常に銃を向けられている敵の要塞。だから尖閣を含む沖縄全体の問題を米中は銃を片手に交渉することになる。交渉が決着する頃には、丸腰で交渉をしていた日本も銃を手にしているはずだ。沖縄県民は万里の長城を守る防人(さきもり)状態なのに、『敵がどこにいるのか』と言われたら笑うしかない」

「防人もいつ攻めてくるかわからない敵に備えて防衛の任にあたっていたわけだから、70年も平和が続けば平和ボケしても無理ないと思うけど?」

「『命(ヌチ)どぅ宝』は平和に暮らす人々に贈られた言葉じゃないからね」

「えっ?じゃあ誰に贈られた言葉なの?」

「琉球処分で上京を強制された王様が、落胆する部下らに詠んだ琉歌。だから、その意味も『虐(しいた)げられた現状に耐えて平和な琉球を取り戻そう。そのためにも生き続けることが大事だ』になると思うよ」

「虐げられた人々に死ぬなよって言いたかったんだ。尚泰王(しょうたいおう)ってすごい人?」

「知らない。尚泰王(しょうたいおう)作の琉歌という説には疑問の声が大きいけど、琉歌の主旨が『自分の命が一番大事』じゃなかったのだけは確実」

「典型的な言葉のひとり歩きという事例だね」

「言葉も人も移ろい行くから、今あるそしてやがて来る逆境を生き抜く自分なりの覚悟が必要だね。『命(ヌチ)どぅ宝』はその覚悟を決めた人々の口を衝(つ)いて出る言葉なんだ」

「どうしたら覚悟できるんだろう?」

「自分の命より大事なものをたくさん持って、生き続けるしかない環境に自分をおくことさ。自分の命がなにものにも勝る宝なのではなくて、自分の命は自分の宝物たちの美しさを自分に教えてくれる光。人が生きて光続ける意味はそれしかないと断言するよ」

「独断と偏見で言いきったね」

「誰もが、この世が多くの宝に満ち溢れていることを教えてくれる光だからさ」

「自分の髪の毛が薄くなってきた理由もわかった気がする」

「それはよかった」