卒業式に見る日本の教育制度の誤り

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 本日、明るい不登校児の娘が、何とか皆と一緒に中学を卒業することができました。高校生になる気はあまりないようなので安心しています。理由ですか?朝起きて遅刻をせずに学校へ行く、そんな普通のことができないからです。息子二人も高校中退ですし、かくいう私も中退しようとして失敗した輩です。私が高校、大学を人並みに卒業できたのは奇跡に過ぎません。それほど、私の血は普通ではないのです。少なくとも、良妻はそう言っています。

 7年ぶりに出席した卒業式ですが、相変わらず儀式そのもので意味がありませんでした。もっと送る側、送られる側の創意工夫が散りばめられた手作りでいくべきだと思うのですが、私には学校が作ったシナリオどおりに生徒が動かされているように見えました。この国には教育の目的がありませんし、教育によって育てる人材の理想像がありません。何のために教育をしているのかを誰も共有できていないのです。だから、卒業式を始め学校での勉強というのは文字通り「強いて勉める」、つまり無理矢理する、嫌々やることであり、生徒はあくまでも受け身でやらされていますので、嫌々やらされることがまさに勉強の本質になっています。

 無理強いしても、身になればまだ救いがありますが、現実はその逆です。学力低下が問題にされ、ゆとり教育の弊害を是正して詰め込み教育に逆行しようとしていますが、問題とされている「学力」が何かご存じですか?単なる知識です。世界ランクで日本の児童生徒の学力が落ちているのは、そこで出されている問題が知識の有無ではなく、彼らが教わっていない知識の活用能力を試す問題だからです。したがって、詰め込み教育に戻ったとしても日本の子供達が世界に通用するレベルに戻れるわけではないのです。

 知識は実生活に活かせてこそ意味があります。知っているだけで実生活に知識が役立つこともありますが、知識にはそれ以上の効果があります。しかし、その効果を引き出すには大前提があります。知識を活用して生活を工夫する能力です。例えば、時刻表を知識として活用するのであれば、電車やバスの発着時間を知っていることだけで足りますが、最短ルートや最短時間、旅行等で複数の行きたいところを効率よく回るプランを知りたい場合には、時刻表だけでなく、使える複数の交通機関、道路地図、観光案内などの知識同士を見比べたり組み合わせたりして、いくつもの選択肢を作成したり作成した選択肢から最良の案を選んだりをする必要があります。それは小学生にも必要な生活上の工夫です。時刻表の見方は教えるけど、時刻表がどのような生活シーンで必要になるのかは教えない現代の教育制度では、知識を実生活に活かす訓練がないので、時刻表の見方そのものが知識として身に付きません。日本の教育は詰め込みすら成功し得ない教育なのです。

 結論は単純です。考える必要がなければ知識を覚えておく必要もありません。命令をする側がいるので、命令を忠実に実行する側を育てなければいけないという国の政策があるのであれば、まさに現在の教育制度は最適な制度といえます。国家の危機となれば、国民は容易に大政翼賛会化するでしょうし、今後益々米国に追随する傾向が強まるでしょう。平和憲法は知識としては持っているが、平和憲法を実現する能力はまるでない日本という国家そのものが、私たち国民の姿を忠実に映し出しています。現状の教育制度の善し悪しを知った上で教育政策を容認するのであれば、それは立派な選択です。決めてくれたら反対はしない、それも立派な選択です。ただし、選択責任を取らされる未来の国民が「立派な選択でした」と言うかと問われれば、私は否と答えますが。

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